昭和四十五年 六月二十五日 朝の御理解


御理解  弟八十二節 「大蔵省は人間の口をみたようなもので、その口に税金が納まらぬ時は、四分板張った戸一枚で寝てはおられぬ。どこの太郎やら次郎やらわからぬようになろうぞ。」

 税金でも、どんどん払わせて頂けるようなおかげを頂かねばなりませんから、税金が納まるとそこでお国が立ち行くという、お国が立ち行けば国民も立ち行くという、そこで税金を例えば納めさせて頂くという事は、そのまま世のお役に立つという事につながっておらなければならない。ですから、世のお役に立ちたいというそれには、世の恩が分からなければいけない。その恩に報いる心が納税というような行為のところ迄いかなければならん、信心ではそういう風だと思うのです。
 御理解二十一節の最後のところに「信心がなければ世界が闇なり」というところがあります。してみると、信心のある世界と信心の無い世界というのを見てみると、もう世界はほとんどがいわば闇だという事になりますね。信心頂いておる所は闇でなくても信心頂いて無い所は闇だという事。それは確かにそうだと思うのです。そこで、私共が今日申します「世の恩」という事が分かれば、税金でも感謝の心をこめて納める事が出来る。又、私共が願いとさせて頂いておる、世のお役に立ちたいという願いが税金なら税金という形で表されていく。ところが、税金を納めたからというて世の中が明るくなるとは限らん。税金を納めすぎたり余ったりするところに、例えば戦争の準備をしたり、いらん事に金をつこうたりといったような結果になる訳です。ですから、かえって世の中を真っ暗にする事の為にお互いが税金を納めたという事になりかねない。ですから、この辺のところを信心で分からしてもらわねぱならないと思う。
  私はこの八十二節というのは、世の恩だという事だと思うのですよ。ここでは税金を納めていかなければという事ですけれども、世の恩を分からしてもらえ、その世の恩に報いるという事。ですから、これは勿論そこに人が助かる事の為に
金を使わせてもらうという事は有り難い事ですけれど一番間違いのない事は、信心なければ世界は闇なりとおっしゃるのですから、私共が本当の信心を頂いて世の中を明るく照らしていけれるというところにまで、おかげを頂いていこうという事になるのじゃないかと、こう思います。カンテラに油いっぱいあっても、芯がなければ火はともらず、火がともらねば世は闇なりと。ですから世が闇である
真っ暗であるから何処の太郎やら次郎やらが分からんのです。ですから、ここに光があれば、いわゆる何処の太郎さんや何処の次郎さんという事が分かる、いわゆる事の真相と云うか本当な事がそこに分かる、光があれば・・・ですからどうでも信心の光と云うか、そういうものが信心によってしか頂けない光というものがそこに自分が明るくなり、自分一家が明るくなり村全体が明るうなりというように、その信心の光が段々広がっていく事の精進をさせて頂く事が、そのまま世のお役に立つ事であり、世の恩を知って世の恩に報いるという事は、この事だという風に思います。
  これは税金を納めると、いわゆる物やら形、又はお金をもって名なる程、それは出来るのです。けれどもそれは人間である限り分からないのです。果たしてこの税金が本当に世のお役に立つ世の光になるかどうか分からない。納めたお金が飛行機になったり大砲になったりする事の為に納める事になってはならんから、ここではどこまでも私は、そういう金やら物やらというような形のものではなくてです、世界は闇とおっしゃる、闇だからこそ人の顔も分からん、いうならばどこの次郎やら太郎やら分からんようになっておる状態の世の中に向かってです、私共がいよいよ信心の光をね、世に表していく、まず自分の心の中から次第にそれを広げていく、云うならごしょくこう的な光から百しょくこうにも一万こうしょくにもと云ったような大きな光にならせて頂くところのおかげを頂く時に、そこにはっきり照らし出されるものが、いわゆる太郎である次郎であるという事が分かってくる。今日の八十二節をそんな風に頂きました。
  それには、どういうような信心が必要か〔と思うのです。〕そしたら、御心眼に『藍の草がいっぱい密集しているところ』を頂いたのです。いわゆる光、即ち愛だと思いました。愛の心、その愛の心というものがです、いわゆる普及されていかなければならない。愛の心でつつんでいかなければならない。
  そこで愛の本質とでも申しましょうか、というのは例えば、昨日テレビで子供達がたくさん集まって、その子供達が可愛がっている動物をみんな持って集まって、それが何かいろいろやっておるのがあっておりました。猫とか犬とか小鳥とか、かたつむりといったのをたくさん集めて可愛がっている、けれどもあまり可愛さの余りですねえ、それを残酷な取り扱いをするというような・・・もう中学生から高校生となりますと蛇やらガマやらを飼っておるです。まあだ小さい錦蛇ですけれども、これは五尺位になるからその位までに育てたいと云うておる。ガマなんかもう手にのせてから本当にゾッとするような感じ、子供がああいうのを飼ったりするようになると困ったもんだと思うです。だからそれもひとつの愛は愛です。けれども愛の本質というものは、どういう事かと云うと潤うと云うか、世の光になると云うか、人が助かるという事につながる愛でなからなければ本当の愛じゃない。その愛を特に説かれるのが、キリスト教ですねえ、愛の心。
人が助かるという事につながる愛でなければならない。しかもそれは普遍的なもの。誰は好きだけれども、誰は嫌いと云ったような愛は、それは本当の愛じゃない。蛇は好きだけれどもガマは好かんというのは本なもんじゃない。私は蛇のテレビの画面を見てですねえ、蛇を見る時はそうでもなかったけれども、ガマが出てきた時にはやっぱり大体が一番嫌いなんですから、嫌と云うのも、もういよいよ性に合わないというのでしょうか・・・・・
  けれどもね、度胸を据えてじーっとそのガマを見よるとね、可愛らしゅうなってくるです。だから嫌だとか汚いとかね、この人は仇というようなのでもじっーと見よったら可愛らしゅうなってくるという、それが本当の愛なのです。いわゆるキリスト教で云う「汝の敵を愛せよ」という愛なのです。トパッと突発敵に飛び出してくるから、もう玉の緒が切れる位にびっくりしますよね。嫌なものですから、大体は・・・けれどもそんなら、そこに大きなガマがおるとする。そのガマをじーっと眺めておるとですねえ、このガマもやっぱり可愛らしいところがあるなあというようにですねえ、感じるんです、私は・・・だから、本当に好きになると云うかねえ努めると云うかねえ、じーっと見ておったら可愛らしいという事になってくる。そういうものだと思う。可愛らしゅうなったら叩きは出来ませんし、殺しは出来ません。
  私共がお道の信心によって頂かしてもらうもの、いわゆる「和賀心」その和らぎ賀ぶ心の中から生まれてくる愛を、私は本当の愛という事になると思う。和らぎ賀ぶ心の中から生まれてくる、それは、なる程、汝の敵でも愛しなければおられない、汝の敵であってもそれを祈らずにはおられない、いわゆる可愛いいものじゃという神心、そういう私は愛の心がです、自分の心を中心にして家庭にそれが世の中に大きく浸透していく、潤うていくというそういうおかげを頂かせて頂く事の為に、私共が生きがいと云うか、生きがいを感じさせて頂くおかげ。
  ですから、もうお導きをするという事に命をかける人があります。もうそれが楽しみ一人一人金光大神の取次によって助かって行く人が増えていくという事を、もういよいよ生涯の生きがいとして、その事に精進しておられる人達があります。いわゆる、それがそんなら、世のお役に立たせて頂くという事につながっていく訳ですねえ。そこでね、段々ひとつ信心させて頂いて自分の心の光を頂いて本当の事が段々分かっていく、これは与えるというものはあげましょうというのでなくて、やはり与えよと云わんでも、もう与えられておると云ったようなものでなからねばならんと思うのです。あなたに、この光をあげましょう。というのでなくてその光に潤うていくというものでなけりゃ・・・うちには、お母さんが信心して頂くけん、家がこっとるとも云わんと、もうお母さんがおりなさると家の中が明るうなる、といったような例えば信心を頂かにゃいけんという事になります。
  昨日、昼ちょっと前でしたですか、久留米の佐田さんがお参りになられて、お礼のお届けがございました。二・三日前、恵介君が学校で友達が粘土を投げたのが左の目に当たった。先生もびっくりされて、すぐ医者につれて行かれたらしい。
いろいろ治療をして頂いてから、夕方から少し痛むだろうと、明日はここが紫に
腫れ上がるじゃろうけれども、二・三日すればよくなるだろうと云うて下さったから安心して帰ってきた。その時に恵介君がです、「先生、僕はもう医者に行かんでもいい」と云われたそうです。その受け持ちの先生が大体、金光様の信者ですからそれで恵介君がいう事はよう分かるけれども、やっぱりお医者につれて行っとかにゃ、というのでね。もう恵介君は御神米と御神酒さんでおかげ頂くという事を知っちゃる訳です。それで医者からもろうてきた薬も、帰ってから薬も頂かないし、つけるものもつけないで、御神米に御神酒さんをつけておかげ頂いた。
痛むと云われよった事も痛みもせず、あくる日になったけれども紫色に腫れもしなかったとこういうのである。ところが何か用があってお母さんが学校に行かれたら、丁度そこに一人の婦人がみえて帰ろうとしておられた。それでその方に、「この方が恵介君のお母さんですよ。」と、いわば土を投げた子供の母親らしかったんですねえ。それで大変気の毒がって、いろいろ云われた。「いいえ、そげなこつじゃありません。もうケロッと直っておかげ頂いとりますから、もうご心配は下さらんように。」と云うて・・・けれども向こうでは大変心配して、お菓子箱でも持って治療費も私から払わしてもらわにゃ相すまんと云うて挨拶にみえた。それでもう「いいえ、そげなこつじゃありません。」と、お菓子箱を随分、押したり引いたりしてお返ししたけれども、どうでもこれだけは取ってくれと
云われるから、これは神様にお供えさせて頂こうというて、昨日はお参りになったのです。そしてその事のお礼があった訳ですけれども、恵介君がお母さんに云うておる事なんです。「あれはね、僕が悪かったんだ。」とこう云う「僕がそこに立っていなかったらよかった。」という訳なんです。
  私は本当に、例えば今、交通事故なんかで随分いろいろの問題がたくさんありますがね、そういう時に、どうでしょうかねえ、私がそこにおったからあなたにご迷惑かけたと、例えば言えれるような世の中なったらどんなに素晴らしい事になるだろうか、「いやあ、それは私の不注意からけがさせてすみません。」「いいや私がそこにおりさえせにゃあ、こげな事はなかったのに。」と云ったような世界なのです。そういうところを信心させて頂いたらやっぱり本当な事が段々分かっていきよる。例えばそういう事したら、現代の世の中は渡っちゃいかれんと云う程しに、世の中は間違っておるという事なんです。だからその世の中に私共がどうしても光を持って奉仕しなければならない。
  まあだ、若先生が学校に行く前でした。椛目時代、もうほんな私の目の前で自転車に、それも縦に敷かれた。そらもう自転車乗ってる人もびっくりして飛び降りて、私もすぐ飛び降りて行ってから勝彦を抱いて家の中に入りました。そしたら近所のおじさんが、自転車の荷台の所をぐっと握ってからしちゃりますもん。
私は勝彦を家さえつれて行ってから、すぐ冷やさせて又、出ていきましたら自転車をつかまえちゃりますけん「本当にどうもすみませんでした。子供がキョロキョロしてからご迷惑かけてすみませんでした。」と云うたら自転車を握っとった
おっさんが腹かきなさって、「せっかく、薬代のいっちょだん取ってやろうと思うてから、自転車ばこうしてつかまえとるとに、もうあんたばっかりは条件に及ばん。」というごたる顔で腹かいて帰られました。もう本当にね子供がキョロキョロ出とったから、ご迷惑をかけたんだという頂き方なのです。恵介君の場合もそうです。僕がここに立っていなかったら、彼にそんな心配させんでよかったとこういうのです。だから僕が実は悪かったと・・・お母さんに「あれは本当は僕が悪かったつよ、大体もう授業が始まっとってから外にもうおっちゃならんのにあそこにおったから、神様からお気付頂いたつ。」と云うたとお母さんが云うておられます。だから、これは本当の見方なのですよ。光がなければ、云えもしなければ思えもしない事なんです。そうでしょうが。いかに事故におうたと云ったって自分がそこにおらなかったら相手の人にそんな迷惑かけんで済むんだけれども、現代の世の中ではです、けがさせた方が負けであり、いわば云うなら、こちらがどがしこ云うたっちゃそれを払わんならんといって、ごうぐられておる人達がたくさんありましょうか゜・・・けれども本当云うたらね、相手にご迷惑をかけとるとですよ。ですから、そんならそれがその被害におうただけが悪かつじゃなかけれどもです、私がもっと注意しときゃよかったとか、私がここにおらなければよかったとかいったような雰囲気の中に事柄が、かたずいていくような世の中が出来なければいけないという事なのです。そういう意味でです、なる程、世の中は闇だなあと思います。信心なければ世界が闇なりと云われる。ですから信心頂いておる者がです、その光を頂かなければその光がです、そういう風に潤うていかなければならない、今時そんな事云よったら馬鹿んごと云われる程しに、例えば世の中は混沌としておるという事なのです。
  それは向こうがけがさせたっちゃから治療費は向こうが払わっしゃるのが当たり前、お菓子箱どん持ってくるのは当たり前というのじゃなくて、そんならこのお菓子箱は家に頂く訳にいかんから、お供えしとこうと云うてお母さんがお礼に出てこられた。そういう生き方をね、私共が本当そういう所が信心しよりゃ馬鹿のごと見えるかもしれませんけれども、そこのところをです、おかげ頂いて行きたいと思います。そういう心がです。いわゆる和賀心から生まれてくる、いわゆる本質的な愛とは、そういうようなものじゃなかろうか。
  これも昨日佐田さんがお届けされた事の中に、その前日、元佐田さんの所におられた女中さんが、日向の山奥の方に縁ずいて行っておられます。そこが家庭的に大変混み入った事情がありましてね、こちらへ出てきたいという希望があって、そんならば私の主人の信心友達の中に久富さんと云う方がおられて、建設業を営んでおられるから仕事が石工さんなんです。ですから、あちらにもそういう手がいるかもしれんから尋ねてあげましょうというて、久富さんにそれを話したところが、そんなら家に来てもらってもいいですよと云う事であった。
  そこで夫婦で佐田さんの所を訪ねてみえましたから、まずとりあえずここへつれて参られた。奥さんの方は何回も前につれて参って来ております。金光様の有り難いという事も、ここに参っては来んけれども主人もだいたい分かっておる、
なかなかあらたかな神様だという事をですねえ、いろんな時に体験しておる訳です。何年かの間に・・・・・それで佐田さんが一緒に伴うてつれて参ってまいりました。なる程、山の中の人ですから素朴なさっぱりした感じの人でした。けれどもね、信心しておかげを受けるという事はあの人は仏様のような人、神様のような人、あの人は本当に正直者だというてもね、世間ではどうしてだろうかというような事がある。あなた方の場合もそうである。ご夫婦とも素直でよい人のようにある、けれども難儀が続くという事はです、信心しておかげを受けるとは別ものだ。そんなら信心しておかげを受けるという事は、そのあなたの素直とか正直とかいう心の中に信心の光を頂く事ですよ。だから、これから信心の光を頂く事の為にひとつおかげを頂かなければいけませんね、というてその日はすぐ帰って、佐田さんと久富さんの所に行かれた。二時間余り、あちらでいろいろとお話を頂いて帰った。その帰りの道すがらバスの中でです、その主人が佐田さんに言われる事です。「奥さん今日、合楽の先生から信心の光という事を聞いたが、どげなこつじゃろうかと思いよったが久富さんにお会いして、お話を頂いておる間に光を持った人とはああいう人じゃろうかと思うた、私はあの人の為なら命がけで働けるような気がする。」と云われたと・・・
  私はおかげを頂いていく人というのはね、これはどうでもね、金で使うとか物で使うだけではなくてです、もうそこの親父の為にならば命がけという事は一生懸命という意味ですよねえ。一生懸命に打ち込めれるというその内容、中心がそういうものを頂かなければ駄目。私はそれを聞いて自分がほめられておるように、
嬉しかった。私はあの親父の為にならば命がけで働けるような気がすると、今日聞いたばっかりの光というのがどげなこつか分からじゃったれけども、ああいう人を光を持った人じゃろうかというて感心して帰ったとこういう。ですから、光というのは与えようと云わんでも、もう何処までも潤うていくという事が分かります。世の中が明るうなっていくという事はそういう事。
  現在の法律などもです、私はこれは本当のものじゃないと思う。例えば今も申しますように、ひとつの事故でもです、会わせた方が徹底的に悪いのだというだけではなしに、本当の事を云うたらです、会わされた方も又、悪いのだというようなです、法律も出来なければいけんのじゃなかろうか。まあ、それは別としましてです、そういう本当な、いうならば世の中が信心によって顕現されてくるというおかげ、私の心の中にある光が、いや投げたつが悪いとじゃない僕が悪かったのだと、恵介君がすぐそれを云うたというようにです、そういう世の中がです
開けていく私は為に、私共が精進するそういう事こそです、私は世のお役に立つ事ではなかろうかと。
  「大蔵省は人間の口のようなもので、税金を納めなければどこの次郎やら太郎やら分からんごとなる」と云われる事は、なる程それは税金の事でもありましょうけれども、これをもう少し深く頂きますとです、そんなら税金を納めた為に戦争の道具がどんどん出来てかえって世の中のを不幸にするといったような事すらがあるのですから、むしろどこの太郎やら次郎やら分からんごとなってくるような事がありますから、これを純信心で頂きますとです、金やら物やらという事ではなくて、自分の心の中から生まれてくる、発する事の出来る信心の光というものを、信心なければ世界は闇なりと云われるから、その闇の所の方がもう大部分だという事ですよねえ。この世の中というのは…信心のあるのはほんのわずか、しかも細々とした光、いや信心しておっても光がないという人も随分ある。信心はしよるばってん、あん奴どんがと云われる人がある位ですから、正義さんのごたるとばっかりおりゃええけれど、そういう訳じゃない場合もあるという事。
  ですから本当に、私共は真の信心を頂いて、あっちの家は信心しござるから、やはり違うといったような光を世の中に放っていくところのおかげを願わしてもらう信心、そこにです、信心なければ世界が闇なりという信心の光を持ってするから、どこの太郎やら次郎やらがはっきり分かってくる。本当の事が分かってくる。そして、例えば私の勝彦が小さい時のお話やら、恵介君のその話やら頂いてそういう世の中がです、私共の足元から表されてくる、顕現されてきたらどのような有り難い世の中になってくるだろうかという事になります。
  だから、世の恩に報いるという事は私共は信心を頂いて本当に信心の光を頂いて自分の足元からまず、光を頂いてそれが家中に村中に広がっていく程しのおかげを願っての信心、そこに生きがいが感じられる信心、そういう信心を頂いていきたいと思いますね。どうぞ。